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二つの「南郡晒 」 2

2020/05/18
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[しろ高宮(近江晒/野洲晒)]

“近江さらしというは、しろ高宮の事なり。至極の上品は見ての景気、奈良よりも、まだまさりていろ白く、糸ほそく光あって見事なるものなり。つよきを好まず、和らかきをいとわぬ人の御召地には、是に勝るはあらし。“ と「万金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ)」享保17年(1732年) で、三宅也来はしろ高宮をこう評した。(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

日本人が縄文時代の初めから使い続けて来た「麻」の代表格は「大麻」と「苧麻」である。この二つの麻は、特に、糸や布になってしまうとほとんど見分けがつかない。そのせいか、文献に表れる「麻」が大麻なのか苧麻なのか、明確に区別されていない事も多い。しかし、実際に、糸にし布に織る過程では、それぞれの繊維に応じた使い分けが明確にされているので、その違いは十分に認識されていたはずである。

江戸時代、苧麻を素材にした「奈良晒」と「木津晒」、大麻を素材とした「しろ高宮」は、それぞれの特徴を生かしつつ、互いに凌ぎを削った事だろう。共通点も多いが「しろ高宮」の最大の特徴は、その柔らかさにある。大麻布は堅いイメージが強いが、江戸時代の川晒は“灰汁で炊き、繊維間の膠着物を落として、川で濯ぎ、天日に晒す事を繰り返した。”大麻は繊維同士の結束力が強いので、一旦、それが外れてしまうと、急速に柔らかくなる。麻は、どれも、砧・染・着用等により次第に柔らかくなっていくが、苧麻布と比べてみると、大麻布の柔らかさが際立って感じられる。


経糸:大麻、緯糸:大麻(倍率20倍)

画像の布は、経糸・緯糸共に大麻である。時代も朱印等も不明なので、それと特定は出来ないが、素材と糸の細さから「しろ高宮」の可能性が高いと思われる。

高宮布の大麻繊維は、強さを求められる経糸には強靭な地元産を、緯糸には艶の良い上州産を買い入れたという。“奈良よりも、まだまさりていろ白く、糸ほそく光あって見事なるものなり。“也来の記述は、この繊維の使い分けによるのだろう。この白く和らかい麻布が、当時の人々の心を捉えた事は想像に難くない。

しろ高宮は「野洲晒」ともいう。湖東地方においては、愛知川以北(北郡)の高宮を中心とする近江麻布産地に対して、愛知川以南(南郡)は、野洲を中心とする晒の産地であった。そのため、野洲晒は「南郡(なんぐん)晒布」を名乗っていた事が、いくつかの史料により確認出来る。「南郡曝布平大工曲」の朱印が捺された、経・緯共に大麻の布も、見つかっているという。

しかし「野洲町史」第2巻 (野洲町 1987年)によると「南郡晒」の呼称を巡り、明和6年(1769年)、木津晒より“呼称差止”の訴状が京都町奉行所に出され、野洲晒側が勝訴している。

同じ「南郡」を、木津晒は「やましろ」と呼び「万金産業袋」が書かれた、1732年当時には、著者の三宅也来にも「南郡」=山城国と認識されていた。しかし、その後、野洲晒の品質が上がり、名声を博して来ると、木津晒の地位は危うくなり、呼称の提訴に及ぶも、その地位が回復することはなかった。これを機に、木津晒は奈良晒の原料供給へと加速していったのではないだろうか? 木津晒が終焉を迎える明治維新の丁度100年前の事である。


二つの「南郡晒 」 1

2020/05/07
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[木津晒]

『幅丈南都(なら)ざらし同断。ならの名物の妙は爰にあり。麻の性、仕入れ同じく、木津川とならの晒場とは、水筋も一つなれとも、わづかの内の違にて大ぶんの地のちがひ。見分(けんぶん)はいかにも相かはる事なしといへとも、染て和らかに着こゝろしよりつきなくて心よからず。南都という朱印のことく、南郡(みなみごほり)という朱印を押せども、それも此ころは山城国といふ字のやうに覚ゆ。爰よりも、島、生びら、しろ等ならにかはる事なく出る』と「万金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ」享保17年(1732年)で、三宅也来が書き記した木津晒とは、どのような布であったのだろうか?(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

木津晒はこれまで奈良晒の産地の一部と見做され、その実像はほとんど解明されてこなかった。地元の木津町においてさえ「山城判場」や「木津晒」は言伝えでしかなかったという。

2018年11月『今井家記録』の中にあった「一国一人山城判場之由緒」と題する、木津晒に関する貴重な資料が ”木津の文化財と緑を守る会“の手で現代語訳され、公開された。(会報『泉』第2号) 今井一族は、近世から「山城判場(木津判場)」が終焉を迎える幕末まで「山城国の晒」にかけられた運上金(税金)を仕配してきた一族という。この文書は今井家の子孫の、特に婦女子に向けて、分かりやすく書き残された物と聞く。

「万金産業袋」によると、判場では「南郡(みなみごほり)」の朱印を捺したというが、この文書の中では「南郡」を「みなみやましろ」と読ませている。

文書を追って行くと、木津晒は、奈良春日大明神の本宮と若宮に捧げる神御衣(かんみそ)としての麻布を、木津川に晒したのがその興りという。 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が山城国の笠置山に臨幸した際には、木津庄及び相楽郡南部で織られていた麻布を、笠置山の山上・山下に建て旗印とした。 延徳元年(1489年)、足利9代将軍義尚の盂蘭盆供養のために、京都東山に木津晒布を牽いて大文字の形とする。(これが今に続く五山の送り火の始まりである。)等、木津の晒布が、古くから、常に時の権力者と強い繋がりがあった事がうかがえるが、この文書が特に書残したかった事は、次の件りであろう。

天正10年(1582年)6月に、織田信長が討たれた時、堺にいた徳川家康が岡崎へ逃走する際、木津を通り、地元の木津・今井一族が木津晒二幕を献上してその警護に当たり、多羅尾(現在の滋賀県甲賀市)まで供をした。後に、慶長19年(1614年)、家康が再び木津を訪れ、稲田孫右衛門宗次宅に泊まったとある。その際、逃走時の功労に対して、山城一国の晒布に運上金(税)をかけ、支配する権利を今井氏のみに与えた。大和国は南都清須美氏に与えられた。

だが、この記述には謎が多い。現在の諸説では家康逃亡のルートに木津は含まれていない。慶長19年大阪冬の陣の時は、木津に泊まる予定を変更し、奈良の奉行所に泊まっている。 しかし、諸説の通りなら、その後の今井氏に対する厚遇は考え難い。

明和5年(1768年)、奈良晒は山城国の運上金も合わせて支配するため、訴訟を起こすが、翌明和6年(1769年)6月19日、京都町奉行石河(いしこ)土佐守の裁きにより、木津晒側が勝訴する。この文書は、安永元年(1772年)6月19日に書かれているので、この時の、今井家が運上金支配に至る経緯を、敢えて徳川家康まで遡って書き記した物と思われる。

反面、「野洲町史」第2巻 (野洲町 1987年)によれば、同じ年の明和6年(1769年)「南郡(みなみやましろ)」の名称を争って、同じく「南郡(なんぐん)」を名乗っていた、しろ高宮(近江晒/野洲晒)との間に訴訟を起こし、木津晒側が敗訴したとあるが、この文書には、敗訴の事は触れられていない。

「山城判場(木津判場)」では、山城一国で生産される生平麻や晒布を検め「南郡(みなみやましろ)」の朱印・黒印を捺したとあり、布は奈良晒に勝るとも劣らぬ品々だったという。しかし、残念ながら、現在確認出来る布としては1点のみ、朱印・黒印は、これまでのところ見つかっていない。 今後の、更なる発見に期待したい。