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お知らせ


追悼 吉岡幸雄先生 3

2020/03/29
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“この辺りにはな「槙島晒」というのもあったんやで。知ってるか?
昔は宇治川でも麻布を晒したそうや“ 先生の工房は宇治川に架かる観月橋の袂にある。
今、目の前の宇治川に、かつての面影はない。元禄時代の歌謡や和歌に、わずかにその名残を留めているのみである。先生の工房の近くに、昭和の干拓で埋立られた巨椋池の、中の島だった「槙島」の地名が残っている。

雪晒・海晒・川晒等の布晒は、布の良し悪しを決める、最後の重要な工程である。後の染色の側から言えば、染色の出来栄を決める重要な前処理工程でもある。“堅く茶色の麻布を、いかにして柔らかく白くして着るか”に、人は早くから工夫を凝らして来た。身の周りの自然風土を巧みに活かしながら。

「呉服類名物目録」寛延元年(1748年)等に、当時の奈良晒の方法が載っているという。

『生平布を水に浸して糊ぬきをし、松の臼と楡(にれ)の木の杵で搗き、芝生の上に広げて灰汁を注ぎ掛けては、晒すことを十数日間続ける(元付)。次にこれを大釜に入れて灰汁を加えて1時間半〜2時間煮てこれを取り出し、芝生の上に広げ、乾けばまた釜で煮ることを6,7度繰り返す(釜入れ)。釜入れが済んだ布を木臼で搗く。2回は灰汁の上澄みを注いで行い、日干しし、3回目は清水に浸して搗き、これを張干しにかけて干す。』(出典:「奈良晒ー近世南都を支えた布」奈良県立民俗博物館 2000年)

大麻・芭蕉・榀・藤等、堅い麻の繊維を柔らかくするためには、繊維に適した良質の灰汁が欠かせない。奈良晒の灰汁は藁灰だという。藁灰(ph9位)は木灰(ph12〜13)ほどphが高くならないので、極薄の布に向いている。又、木灰より金属塩が少ないので、後の染色(植物染料)に影響を与える恐れも少ない。

布を搗く臼は松で、杵は楡で出来ていたという。松は堅い赤松だろうか?強度や耐久性に優れ、水に強い。楡はしなやかさがあり、割れ難いという。道具にも、最適な素材が選ばれていることが分かる。

布が真っ白になるまでには、晴天の日を選んで10日程かかったという。それぞれの具体的な数値は、職人の腕の中だけにあるのだろう。しかし、明治以降は化学晒に変わり、この方法は残されていない・・・ ”やってみなければ分からない“

昨年の9月初めに、織上がって来た大麻布を一反、晒してみることにして、先生をお訪ねした。先生は、以前、木津川で晒したことがあると言われ、“10月に入ったら早速”と話はすぐに纏まった。木津川も、又、かつて奈良に続く晒の産地であった。

“本気や“ 先生の声が、今も耳に残る。


追悼 吉岡幸雄先生 2

2020/03/24
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“「なんとざらし」や” ルーペを覗きながらそうおっしゃった。
昨年の9月始めに、奈良晒の朱印のある布裂をお持ちして、朱印の横の墨書きを読んでいただいた。朱印とは逆向きに「ナム斗さ羅らし」と書かれている。

「奈良晒」は近世奈良を中心に織られた自給用の織物とは異なる「商品麻織物」である。
徳川幕府の庇護の下で、武士や富裕な町人の裃等の礼服用、ないしは帷子の衣料用として発展した。最盛期には、年間30 〜40万疋もの生産量を誇ったという。
素材には、越後や最上産の上質の青苧が使われ、“細緻絹の如し“と謳われたが、評価を高めた最大の要因は“潔白雪の如し”と言われた晒の技術の高さであろう。
慶長16 年(1611年)に、家康の命により尺幅を検査し「南都改」の朱印を捺すことが定められ、朱印の無い晒布の売買が禁じられた。

朱印は、次のように捺されている。

朱印の真ん中に「南都曝()平大工曲」と有り、右側に布の長さ「六丈七尺五寸」が、左側に亘(わたり:渡す・通す=)「壱尺壱寸」が印されている。

(生地提供 :リメイクデザイナー/森川恭子さん)

「平」は「平布」「生平布」で、奈良晒では通常、経糸のみに撚りを掛けた布のことを言う。しかし、既に衰退の一途を辿っていた幕末安政年間に、極細の糸で、経・緯共に無撚りの、最上級の「極上御召晒」も織られていたと聞く。
この布裂には経・緯共に撚りが見られない。もしかすると、その「極上御召晒」の内の1枚なのかもしれない。

「大工曲」は曲(金)尺のこと。主に大工が使い、金で作ったことに由来するという。通常、尺と言えば曲尺を指す。当時、流通していた曲尺は、永正年間(1504〜1521年)に、指物師又四郎が考案した「又四郎尺」で、一尺は30.258cmである。晒後の寸法を朱印で印した。
長:六丈七尺五寸=20m42.42cm
亘(幅):壱尺壱寸=33.28cm

今、改めてこの朱印に触れていると、あの時の先生の言葉がまざまざと蘇って来る。


追悼 吉岡幸雄先生 1

2020/03/19
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“「績むの世界」を大事にせなあかんよ。

布が無かったら、私たちは染められんのだから。”と、

いつも、背中を押していただいた。

残された宿題は、あまりにも大きい。

頭上から、“がんばりや”の変わらぬ声が 聞こえてくる。

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神に捧げる純白

久しぶりにアメリカ合衆国のボストンとニューヨークへ
出かけた。美術館で名品の数々を観るためである。

とりわけニューヨークのメトロポリタン美術館で、エジプトの部屋の鑑賞に時間をさいた。いつもながら美しい発掘調査の成果が見事に展示してあって、見応えがあった。時間がまたたく間に過ぎていく。なかでも、私は埋葬されたミイラを巻いた麻布に魅せられる。

古代エジプトでは、衣類といえば麻しかなかったといってもいいわけで、清浄な白い麻布は、高貴な人びとも、庶民も着用していたのである。そして墳墓(ふんぼ)に葬る死者の身体に白い麻布を巻きつけた。

麻はまさしく聖なる衣服であったのである。それは古代の日本にもあてはまる。

伊勢神宮では二〇年に一度、式年遷宮(せんくう)が行われてきた。式年遷宮では、伊勢神宮の内宮(ないくう)と外宮(げくう)のふたつの正殿(せいでん)と、一四ある別宮(べつぐう)の社殿をすべて造り替えて神を遷(うつ)す。持統四年の六九〇年にはじめられて、前回の平成五(一九九三)年で六一回を数える。

私の染工房も、遷宮に使われる絹布の染色のお手伝いをさせて戴いたため、前回の遷宮が無事終了した際に、神宮司庁(じんぐうしちょう)から礼状とともに、小さな桐の箱に入れられた記念品が届けられた。箱は白い和紙で包まれていて、上には水引のように白い麻の緒(お)が結ばれていた。

贈答品を包装する紙にかける飾り紐である水引は、祝いごとには紅白や金銀が、弔事には黒白や黄白で結ばれることが多い。

しかし、伊勢神宮からのそれは、白い麻の紐であったことが古式ゆかしく印象的であった。

水引という言葉は、麻などの靭皮(じんぴ)繊維〔表皮のすぐ内側にある柔らかい皮のこと〕を採るときに、水に浸してから引きあげ、外皮を剥ぐことに由来している。古代の日本には木綿、羊毛などの繊維がまだ伝播(でんぱ)していなかったため、麻や、山野に自生する楮(こうぞ)、藤などの樹皮を細く裂いて糸として、機(はた)にかけて布を織りあげ、衣料にもしていたのである。こうした樹皮の内側を用いる繊維には、植物の茶色いタンニン酸が含まれている。

現代は紙、タオル、衣料など真っ白な色をあまりにも日常に眼にしていて、なんの不思議も感じないが、化学漂白剤が海外から入る江戸末期までは、生成(きなり)色の自然の色がついた植物繊維から、純白な糸を得るのは容易ではなかった。

まず木灰で煮て、繊維を柔らかくするとともに、不純物を洗い流す。それを晒(さら)して純白を得るためには、太陽の紫外線に当てるといいことを日本人も古くから知っていた。

沖縄のように海が近いところは、海面すれすれに布を張る。これを「海ざらし」という。良質な麻を産する新潟県越後地方では、深い雪がとけはじめる三月頃に、残雪の上に布を敷き、春光を浴びさせる「雪ざらし」という手法がある。

また、東京都の西を流れる多摩川、奈良と京都の県境近くの木津川の周辺では、川辺の白砂の上で「川ざらし」、あるいは茶畑の上に布を敷く「丘ざらし」で太陽に晒していた。

神に捧げる純白で無垢な布帛(ふはく)は、こうした知恵から生まれた。人間は華やかな色を染める以前に、まず白を発見しなければならなかったのである。

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出典 : JALカード会員誌「AGORA 」2011年1月号より