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二つの「南郡晒 」 1

2020/05/07
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[木津晒]

『幅丈南都(なら)ざらし同断。ならの名物の妙は爰にあり。麻の性、仕入れ同じく、木津川とならの晒場とは、水筋も一つなれとも、わづかの内の違にて大ぶんの地のちがひ。見分(けんぶん)はいかにも相かはる事なしといへとも、染て和らかに着こゝろしよりつきなくて心よからず。南都という朱印のことく、南郡(みなみごほり)という朱印を押せども、それも此ころは山城国といふ字のやうに覚ゆ。爰よりも、島、生びら、しろ等ならにかはる事なく出る』と「万金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ」享保17年(1732年)で、三宅也来が書き記した木津晒とは、どのような布であったのだろうか?(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

木津晒はこれまで奈良晒の産地の一部と見做され、その実像はほとんど解明されてこなかった。地元の木津町においてさえ「山城判場」や「木津晒」は言伝えでしかなかったという。

2018年11月『今井家記録』の中にあった「一国一人山城判場之由緒」と題する、木津晒に関する貴重な資料が ”木津の文化財と緑を守る会“の手で現代語訳され、公開された。(会報『泉』第2号) 今井一族は、近世から「山城判場(木津判場)」が終焉を迎える幕末まで「山城国の晒」にかけられた運上金(税金)を仕配してきた一族という。この文書は今井家の子孫の、特に婦女子に向けて、分かりやすく書き残された物と聞く。

「万金産業袋」によると、判場では「南郡(みなみごほり)」の朱印を捺したというが、この文書の中では「南郡」を「みなみやましろ」と読ませている。

文書を追って行くと、木津晒は、奈良春日大明神の本宮と若宮に捧げる神御衣(かんみそ)としての麻布を、木津川に晒したのがその興りという。 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が山城国の笠置山に臨幸した際には、木津庄及び相楽郡南部で織られていた麻布を、笠置山の山上・山下に建て旗印とした。 延徳元年(1489年)、足利9代将軍義尚の盂蘭盆供養のために、京都東山に木津晒布を牽いて大文字の形とする。(これが今に続く五山の送り火の始まりである。)等、木津の晒布が、古くから、常に時の権力者と強い繋がりがあった事がうかがえるが、この文書が特に書残したかった事は、次の件りであろう。

天正10年(1582年)6月に、織田信長が討たれた時、堺にいた徳川家康が岡崎へ逃走する際、木津を通り、地元の木津・今井一族が木津晒二幕を献上してその警護に当たり、多羅尾(現在の滋賀県甲賀市)まで供をした。後に、慶長19年(1614年)、家康が再び木津を訪れ、稲田孫右衛門宗次宅に泊まったとある。その際、逃走時の功労に対して、山城一国の晒布に運上金(税)をかけ、支配する権利を今井氏のみに与えた。大和国は南都清須美氏に与えられた。

だが、この記述には謎が多い。現在の諸説では家康逃亡のルートに木津は含まれていない。慶長19年大阪冬の陣の時は、木津に泊まる予定を変更し、奈良の奉行所に泊まっている。 しかし、諸説の通りなら、その後の今井氏に対する厚遇は考え難い。

明和5年(1768年)、奈良晒は山城国の運上金も合わせて支配するため、訴訟を起こすが、翌明和6年(1769年)6月19日、京都町奉行石河(いしこ)土佐守の裁きにより、木津晒側が勝訴する。この文書は、安永元年(1772年)6月19日に書かれているので、この時の、今井家が運上金支配に至る経緯を、敢えて徳川家康まで遡って書き記した物と思われる。

反面、「野洲町史」第2巻 (野洲町 1987年)によれば、同じ年の明和6年(1769年)「南郡(みなみやましろ)」の名称を争って、同じく「南郡(なんぐん)」を名乗っていた、しろ高宮(近江晒/野洲晒)との間に訴訟を起こし、木津晒側が敗訴したとあるが、この文書には、敗訴の事は触れられていない。

「山城判場(木津判場)」では、山城一国で生産される生平麻や晒布を検め「南郡(みなみやましろ)」の朱印・黒印を捺したとあり、布は奈良晒に勝るとも劣らぬ品々だったという。しかし、残念ながら、現在確認出来る布としては1点のみ、朱印・黒印は、これまでのところ見つかっていない。 今後の、更なる発見に期待したい。