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越中布(福光麻布) 2

2020/07/14
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おばあちゃんたちの糸

「織ってみますか?」帰りがけに、福光麻布の元麻問屋の舟岡桂子さんは、大きな袋一杯の手績みの糸を出してこられた。「緯糸だけなら、5疋織れますから。手の綺麗な人のものです。」福光麻布13号(羽)用の手績みの糸である。撚りは掛かっていない。

「私の子供の頃はね、苧績みの出来るおばあちゃんたちが、まだこの辺にたくさんいました。糸や布も皆自分たちで作っていて、余るとそれを売りに来ていた。 だから、色んな糸や布があって、父はそれを黙って買取っていた。断れないって。 おばあちゃんたちにとって「苧績み」は 、“お金” じゃなくって “生甲斐” だった。 百歳まで、元気に地機を織っていたおばあちゃんもいて・・・」 

「おばあちゃんたちの “生甲斐” が無くなっちゃうんじゃ無いの?」と、店終いを考える喜一郎さんに訴えた事が、喜一郎さんから襷を渡されるハメに陥った、きっかけだったと桂子さんは笑う。ところが、桂子さんの代になって2〜30年もたつと、おばあちゃんたちが、毎年、次々に亡くなってゆき「苧績み」は、もはや、おばあちゃんたちの “生甲斐”ではなくなってしまった。蚊帳や幕、畳の縁等の需要も激減するに及んで、桂子さんは暖簾を降す決断をする。 

日本人が生活の中で、手績みの大麻の布を、ごく当たり前の様に使っていたのは、わずか半世紀程前の事である。おばあちゃんたちの布からは、つましく、懸命に生きた日本人の暮らしぶりが静かに伝わって来る。経糸にも緯糸にも撚りがかかり、経・緯の糸の数がほぼ同じ布は、糸と糸との間に真四角の隙間がある。それ故か、地機のためか、整った柔らかな印象を与える。

ところが、舟岡商店の店終いから十数年が経つという今、日本では「手績みの糸に撚りをかけ、地機で織る」事は、もはや至難の業である。中国でも「糸に撚りをかけ、真四角な隙間のある布を織る」事は出来ない・・・

おばあちゃんたちの糸はズシリと重い。


越中布(八講布/五郎丸) 1

2020/07/08
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経糸に大麻、緯糸が苧麻というのも珍しい。近世日本四大麻布の一つ「越中布」。別名「八講布」あるいは「五郎丸」として、その名が知られて来た。 「八講布」は、砺波郡八講田村で「五郎丸」は、隣村の五郎丸村で織られたところから来た名前である。しかし、江戸の中頃には、両村共、ほとんど麻布の生産は見られなくなり、砺波郡一円に産地が拡大したという。また、当時、小矢部川上流の山間の村々で「川上布」、細布(さよみ)とも呼ばれる上質な布が織られており、「八講布」が織られなくなってからは「川上布」が「八講布」の名を継いだという。(「越中 福光麻布」桂書房 2016年) 「越中布」も「奈良晒」や「白高宮」と同じように、小矢部川の川晒で布を白くした。

八かう島 かゞしま これなり 白八かう、同広 世にこれを五ら丸という。以上は加州よりいづる。上ものを御蔵(をくら)といふ。』と「八講布」「五郎丸」と呼ばれた布を『万金産業袋』で三宅也来は、こう紹介している。(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

経糸:大麻 緯糸:苧麻 (倍率20倍) 

「苧麻x苧麻」「大麻x大麻」と、各産地がその特徴を競い合う中で、「大麻x苧麻」の越中布は、堅からず柔らか過ぎず、静かにその異彩を放つ。 経糸は五箇山近在の地苧を、緯糸は最上産の青苧を使ったのは、地苧の強度と最上産の青苧の美を合わせたのであろう。白高宮の糸遣いに通じる気がする。 

江戸時代まで、砺波郡は加賀領であった。加賀藩の重要な産物であった越中布は、裃や神社の幕等に使われ、最盛期には年間65000疋に達したというが、江戸期の資料は乏しく、当時の布は、なかなか手にすることが難しい。 

とりわけ、越中布に特徴的なのは、着物や蚊帳の原材料となる苧絈(おがせ・績んで撚りをかけた糸)も、加賀藩の重要な産物だったことである。“能登ロ郡(羽咋・鹿島両郡)には絈問屋が有り、苧絈の大半は、近江八幡や五箇荘の江州商人に販売されていた”という。(三浦純夫『能登に来た江州の苧絈商人』 「石川県史だより」第55号2015年) 

高宮布の中には、経糸が大麻、緯糸は苧麻の物や、地糸は大麻、絣糸のみ苧麻の糸を使う例も見られる。高宮布のモダンな意匠は、越中布からの豊富な糸の供給が生んだとも言えるかもしれない。「越中布」と「高宮布」、近世の二大麻布が糸で結ばれていた、というのも面白い。 

「五郎丸は無いか?」と、30年程前、この仕事を始めた頃に、ある旗屋さんから聞かれた事が「五郎丸」という麻布を知るきっかけとなった。当時、福光で求めた「五郎丸」は、経糸は苧麻の紡績糸、緯糸が手績みの大麻糸の白い布であった。越中布は、昭和天皇の大喪の礼に240反を納めた事を最後に、その歴史を閉じたとされるから、求めた布は、商品として流通した最後の物であろう。 江戸期の「越中布」は、経糸が手績みの大麻糸、緯糸は手績みの苧麻糸であった。 明治に入って、紡績糸が導入されると、一気に、経糸の手績みの糸は紡績糸に取って代られる。経糸が紡績糸になり、手績み糸のように、経糸の張力の調整を必要としなくなった機は、地機から高機に代わり、織の能率を上げる。同様に、灰汁を使った川晒も、薬品を使った化学晒に代わっていく。“白く柔らかい布” を実現した川晒の布は “白い布” に代るのである。 

「福光麻織物の沿革」舟岡喜一郎 昭和十一年十月 帝織へ提出 より抜粋 『明治初年頃の原料は山形産カラムシ、上州 野州産大麻を使用し手うみ手つむぎ手織にて生産せり。明治二十三年頃はじめて製麻糸を知りたるも国産麻布擁護の為、出町、福野等と申し合わせこれを使用せざる事とせり。然れ共、時代の勢抗し難く明治三十三年頃より是を経糸として盛に使用し、二、三年を出ずして製麻糸を経糸と為すもの大部分を占むるに至れり。製麻糸の使用は手織機より足ふみ機へと変化し大いに能率を上げたり。』(出典:「越中 福光麻布」桂書房 2016年より) 

江戸から明治という時代の激しい変化の中で、麻布も無縁では有り得なかった。 手績みの麻布にとって、現在は更に激しい時代の変化に晒されていると言えるだろう。 その意味で、舟岡喜一郎氏のこの記述は、私たちに多くの示唆を与えるものと思えてならない。