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お知らせ


日本の大麻糸

2023/01/01
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苧績みが生き甲斐だった、おばあちゃんたちが残した大麻の糸。
越中布の里で。
越後→沖縄・大宜味村と繋いで八寸の帯地にしました。
これは、織り終いの残りの糸。
大宜味村では「うっきー」と呼ぶのだそうですが、語源は分かりません。
じっと見ていると、おばあちゃんたちの声が聞こえてくるようです。


価格改定のお知らせ

2022/10/01
価格 

本日より、布と糸の価格を改定いたしました。
急速に進む円安の影響によるものです。
新価格は下記により、ご確認ください。

これを機に、一部の布の糸を「日本仕様」に切替える等、品質の安定と向上に更に努めて参りますので、引き続き、ご愛顧のほどお願い申し上げます。

価格表(国内)10%改正後22.10のサムネイル

糸価格表10%22.10のサムネイル


日本の大麻糸

2022/01/01
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お正月、下ろしたての下駄の赤い鼻緒が嬉しくて、
よく走り回ったものです。
鼻緒の内側が大麻だったと知ったのは、
ずっと後のこと。
凧揚げの紐も。
独楽回しの紐も。

まだ、そんなに遠い昔のことではありません。


麻糸・麻布・野蚕糸の価格変更のお知らせ

2021/05/12
価格 

糸や布の価格が、6月1日より、全面的に上がりますのでお知らせいたします。
新しい価格は下記の「新価格表」でご確認ください。

中国の麻布の産地では、近年、手績みの糸を作る人が極端に少なくなり、紡績糸の価格も高騰を続けています。職人の流出も止まりません。
しかしながら、布の価格は変わりますが、今後も、私たちの品質の維持と入荷量の確保に対する工夫と努力には、変わりはありません。
この布がこれからも長く続いて行く事を願って。

※画像をクリックするとPDFファイルで新しい価格表をご覧いただけます。

価格表(国内)10%改正後21.6のサムネイル

糸価格表10%21.6のサムネイル


日本の大麻 2

2021/01/01
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子供の頃に行った近所のお宮さんの初詣。
重い鈴縄を揺すって、願い事をたくさんしましたっけ。
その縄が大麻と知ったのは、大人になってから。
凧揚げの紐も、新しい下駄の鼻緒も大麻。
日本人の暮らしの中に溶けこんでいた大麻は、
今も私たちの記憶の中で生き続けています。


越中布(福光麻布) 2

2020/07/14
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おばあちゃんたちの糸

「織ってみますか?」帰りがけに、福光麻布の元麻問屋の舟岡桂子さんは、大きな袋一杯の手績みの糸を出してこられた。「緯糸だけなら、5疋織れますから。手の綺麗な人のものです。」福光麻布13号(羽)用の手績みの糸である。撚りは掛かっていない。

「私の子供の頃はね、苧績みの出来るおばあちゃんたちが、まだこの辺にたくさんいました。糸や布も皆自分たちで作っていて、余るとそれを売りに来ていた。 だから、色んな糸や布があって、父はそれを黙って買取っていた。断れないって。 おばあちゃんたちにとって「苧績み」は 、“お金” じゃなくって “生甲斐” だった。 百歳まで、元気に地機を織っていたおばあちゃんもいて・・・」 

「おばあちゃんたちの “生甲斐” が無くなっちゃうんじゃ無いの?」と、店終いを考える喜一郎さんに訴えた事が、喜一郎さんから襷を渡されるハメに陥った、きっかけだったと桂子さんは笑う。ところが、桂子さんの代になって2〜30年もたつと、おばあちゃんたちが、毎年、次々に亡くなってゆき「苧績み」は、もはや、おばあちゃんたちの “生甲斐”ではなくなってしまった。蚊帳や幕、畳の縁等の需要も激減するに及んで、桂子さんは暖簾を降す決断をする。 

日本人が生活の中で、手績みの大麻の布を、ごく当たり前の様に使っていたのは、わずか半世紀程前の事である。おばあちゃんたちの布からは、つましく、懸命に生きた日本人の暮らしぶりが静かに伝わって来る。経糸にも緯糸にも撚りがかかり、経・緯の糸の数がほぼ同じ布は、糸と糸との間に真四角の隙間がある。それ故か、地機のためか、整った柔らかな印象を与える。

ところが、舟岡商店の店終いから十数年が経つという今、日本では「手績みの糸に撚りをかけ、地機で織る」事は、もはや至難の業である。中国でも「糸に撚りをかけ、真四角な隙間のある布を織る」事は出来ない・・・

おばあちゃんたちの糸はズシリと重い。


越中布(八講布/五郎丸) 1

2020/07/08
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経糸に大麻、緯糸が苧麻というのも珍しい。近世日本四大麻布の一つ「越中布」。別名「八講布」あるいは「五郎丸」として、その名が知られて来た。 「八講布」は、砺波郡八講田村で「五郎丸」は、隣村の五郎丸村で織られたところから来た名前である。しかし、江戸の中頃には、両村共、ほとんど麻布の生産は見られなくなり、砺波郡一円に産地が拡大したという。また、当時、小矢部川上流の山間の村々で「川上布」、細布(さよみ)とも呼ばれる上質な布が織られており、「八講布」が織られなくなってからは「川上布」が「八講布」の名を継いだという。(「越中 福光麻布」桂書房 2016年) 「越中布」も「奈良晒」や「白高宮」と同じように、小矢部川の川晒で布を白くした。

八かう島 かゞしま これなり 白八かう、同広 世にこれを五ら丸という。以上は加州よりいづる。上ものを御蔵(をくら)といふ。』と「八講布」「五郎丸」と呼ばれた布を『万金産業袋』で三宅也来は、こう紹介している。(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

経糸:大麻 緯糸:苧麻 (倍率20倍) 

「苧麻x苧麻」「大麻x大麻」と、各産地がその特徴を競い合う中で、「大麻x苧麻」の越中布は、堅からず柔らか過ぎず、静かにその異彩を放つ。 経糸は五箇山近在の地苧を、緯糸は最上産の青苧を使ったのは、地苧の強度と最上産の青苧の美を合わせたのであろう。白高宮の糸遣いに通じる気がする。 

江戸時代まで、砺波郡は加賀領であった。加賀藩の重要な産物であった越中布は、裃や神社の幕等に使われ、最盛期には年間65000疋に達したというが、江戸期の資料は乏しく、当時の布は、なかなか手にすることが難しい。 

とりわけ、越中布に特徴的なのは、着物や蚊帳の原材料となる苧絈(おがせ・績んで撚りをかけた糸)も、加賀藩の重要な産物だったことである。“能登ロ郡(羽咋・鹿島両郡)には絈問屋が有り、苧絈の大半は、近江八幡や五箇荘の江州商人に販売されていた”という。(三浦純夫『能登に来た江州の苧絈商人』 「石川県史だより」第55号2015年) 

高宮布の中には、経糸が大麻、緯糸は苧麻の物や、地糸は大麻、絣糸のみ苧麻の糸を使う例も見られる。高宮布のモダンな意匠は、越中布からの豊富な糸の供給が生んだとも言えるかもしれない。「越中布」と「高宮布」、近世の二大麻布が糸で結ばれていた、というのも面白い。 

「五郎丸は無いか?」と、30年程前、この仕事を始めた頃に、ある旗屋さんから聞かれた事が「五郎丸」という麻布を知るきっかけとなった。当時、福光で求めた「五郎丸」は、経糸は苧麻の紡績糸、緯糸が手績みの大麻糸の白い布であった。越中布は、昭和天皇の大喪の礼に240反を納めた事を最後に、その歴史を閉じたとされるから、求めた布は、商品として流通した最後の物であろう。 江戸期の「越中布」は、経糸が手績みの大麻糸、緯糸は手績みの苧麻糸であった。 明治に入って、紡績糸が導入されると、一気に、経糸の手績みの糸は紡績糸に取って代られる。経糸が紡績糸になり、手績み糸のように、経糸の張力の調整を必要としなくなった機は、地機から高機に代わり、織の能率を上げる。同様に、灰汁を使った川晒も、薬品を使った化学晒に代わっていく。“白く柔らかい布” を実現した川晒の布は “白い布” に代るのである。 

「福光麻織物の沿革」舟岡喜一郎 昭和十一年十月 帝織へ提出 より抜粋 『明治初年頃の原料は山形産カラムシ、上州 野州産大麻を使用し手うみ手つむぎ手織にて生産せり。明治二十三年頃はじめて製麻糸を知りたるも国産麻布擁護の為、出町、福野等と申し合わせこれを使用せざる事とせり。然れ共、時代の勢抗し難く明治三十三年頃より是を経糸として盛に使用し、二、三年を出ずして製麻糸を経糸と為すもの大部分を占むるに至れり。製麻糸の使用は手織機より足ふみ機へと変化し大いに能率を上げたり。』(出典:「越中 福光麻布」桂書房 2016年より) 

江戸から明治という時代の激しい変化の中で、麻布も無縁では有り得なかった。 手績みの麻布にとって、現在は更に激しい時代の変化に晒されていると言えるだろう。 その意味で、舟岡喜一郎氏のこの記述は、私たちに多くの示唆を与えるものと思えてならない。


二つの「南郡晒 」 2

2020/05/18
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[しろ高宮(近江晒/野洲晒)]

“近江さらしというは、しろ高宮の事なり。至極の上品は見ての景気、奈良よりも、まだまさりていろ白く、糸ほそく光あって見事なるものなり。つよきを好まず、和らかきをいとわぬ人の御召地には、是に勝るはあらし。“ と「万金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ)」享保17年(1732年) で、三宅也来はしろ高宮をこう評した。(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

日本人が縄文時代の初めから使い続けて来た「麻」の代表格は「大麻」と「苧麻」である。この二つの麻は、特に、糸や布になってしまうとほとんど見分けがつかない。そのせいか、文献に表れる「麻」が大麻なのか苧麻なのか、明確に区別されていない事も多い。しかし、実際に、糸にし布に織る過程では、それぞれの繊維に応じた使い分けが明確にされているので、その違いは十分に認識されていたはずである。

江戸時代、苧麻を素材にした「奈良晒」と「木津晒」、大麻を素材とした「しろ高宮」は、それぞれの特徴を生かしつつ、互いに凌ぎを削った事だろう。共通点も多いが「しろ高宮」の最大の特徴は、その柔らかさにある。大麻布は堅いイメージが強いが、江戸時代の川晒は“灰汁で炊き、繊維間の膠着物を落として、川で濯ぎ、天日に晒す事を繰り返した。”大麻は繊維同士の結束力が強いので、一旦、それが外れてしまうと、急速に柔らかくなる。麻は、どれも、砧・染・着用等により次第に柔らかくなっていくが、苧麻布と比べてみると、大麻布の柔らかさが際立って感じられる。


経糸:大麻、緯糸:大麻(倍率20倍)

画像の布は、経糸・緯糸共に大麻である。時代も朱印等も不明なので、それと特定は出来ないが、素材と糸の細さから「しろ高宮」の可能性が高いと思われる。

高宮布の大麻繊維は、強さを求められる経糸には強靭な地元産を、緯糸には艶の良い上州産を買い入れたという。“奈良よりも、まだまさりていろ白く、糸ほそく光あって見事なるものなり。“也来の記述は、この繊維の使い分けによるのだろう。この白く和らかい麻布が、当時の人々の心を捉えた事は想像に難くない。

しろ高宮は「野洲晒」ともいう。湖東地方においては、愛知川以北(北郡)の高宮を中心とする近江麻布産地に対して、愛知川以南(南郡)は、野洲を中心とする晒の産地であった。そのため、野洲晒は「南郡(なんぐん)晒布」を名乗っていた事が、いくつかの史料により確認出来る。「南郡曝布平大工曲」の朱印が捺された、経・緯共に大麻の布も、見つかっているという。

しかし「野洲町史」第2巻 (野洲町 1987年)によると「南郡晒」の呼称を巡り、明和6年(1769年)、木津晒より“呼称差止”の訴状が京都町奉行所に出され、野洲晒側が勝訴している。

同じ「南郡」を、木津晒は「やましろ」と呼び「万金産業袋」が書かれた、1732年当時には、著者の三宅也来にも「南郡」=山城国と認識されていた。しかし、その後、野洲晒の品質が上がり、名声を博して来ると、木津晒の地位は危うくなり、呼称の提訴に及ぶも、その地位が回復することはなかった。これを機に、木津晒は奈良晒の原料供給へと加速していったのではないだろうか? 木津晒が終焉を迎える明治維新の丁度100年前の事である。


二つの「南郡晒 」 1

2020/05/07
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[木津晒]

『幅丈南都(なら)ざらし同断。ならの名物の妙は爰にあり。麻の性、仕入れ同じく、木津川とならの晒場とは、水筋も一つなれとも、わづかの内の違にて大ぶんの地のちがひ。見分(けんぶん)はいかにも相かはる事なしといへとも、染て和らかに着こゝろしよりつきなくて心よからず。南都という朱印のことく、南郡(みなみごほり)という朱印を押せども、それも此ころは山城国といふ字のやうに覚ゆ。爰よりも、島、生びら、しろ等ならにかはる事なく出る』と「万金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ」享保17年(1732年)で、三宅也来が書き記した木津晒とは、どのような布であったのだろうか?(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

木津晒はこれまで奈良晒の産地の一部と見做され、その実像はほとんど解明されてこなかった。地元の木津町においてさえ「山城判場」や「木津晒」は言伝えでしかなかったという。

2018年11月『今井家記録』の中にあった「一国一人山城判場之由緒」と題する、木津晒に関する貴重な資料が ”木津の文化財と緑を守る会“の手で現代語訳され、公開された。(会報『泉』第2号) 今井一族は、近世から「山城判場(木津判場)」が終焉を迎える幕末まで「山城国の晒」にかけられた運上金(税金)を仕配してきた一族という。この文書は今井家の子孫の、特に婦女子に向けて、分かりやすく書き残された物と聞く。

「万金産業袋」によると、判場では「南郡(みなみごほり)」の朱印を捺したというが、この文書の中では「南郡」を「みなみやましろ」と読ませている。

文書を追って行くと、木津晒は、奈良春日大明神の本宮と若宮に捧げる神御衣(かんみそ)としての麻布を、木津川に晒したのがその興りという。 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が山城国の笠置山に臨幸した際には、木津庄及び相楽郡南部で織られていた麻布を、笠置山の山上・山下に建て旗印とした。 延徳元年(1489年)、足利9代将軍義尚の盂蘭盆供養のために、京都東山に木津晒布を牽いて大文字の形とする。(これが今に続く五山の送り火の始まりである。)等、木津の晒布が、古くから、常に時の権力者と強い繋がりがあった事がうかがえるが、この文書が特に書残したかった事は、次の件りであろう。

天正10年(1582年)6月に、織田信長が討たれた時、堺にいた徳川家康が岡崎へ逃走する際、木津を通り、地元の木津・今井一族が木津晒二幕を献上してその警護に当たり、多羅尾(現在の滋賀県甲賀市)まで供をした。後に、慶長19年(1614年)、家康が再び木津を訪れ、稲田孫右衛門宗次宅に泊まったとある。その際、逃走時の功労に対して、山城一国の晒布に運上金(税)をかけ、支配する権利を今井氏のみに与えた。大和国は南都清須美氏に与えられた。

だが、この記述には謎が多い。現在の諸説では家康逃亡のルートに木津は含まれていない。慶長19年大阪冬の陣の時は、木津に泊まる予定を変更し、奈良の奉行所に泊まっている。 しかし、諸説の通りなら、その後の今井氏に対する厚遇は考え難い。

明和5年(1768年)、奈良晒は山城国の運上金も合わせて支配するため、訴訟を起こすが、翌明和6年(1769年)6月19日、京都町奉行石河(いしこ)土佐守の裁きにより、木津晒側が勝訴する。この文書は、安永元年(1772年)6月19日に書かれているので、この時の、今井家が運上金支配に至る経緯を、敢えて徳川家康まで遡って書き記した物と思われる。

反面、「野洲町史」第2巻 (野洲町 1987年)によれば、同じ年の明和6年(1769年)「南郡(みなみやましろ)」の名称を争って、同じく「南郡(なんぐん)」を名乗っていた、しろ高宮(近江晒/野洲晒)との間に訴訟を起こし、木津晒側が敗訴したとあるが、この文書には、敗訴の事は触れられていない。

「山城判場(木津判場)」では、山城一国で生産される生平麻や晒布を検め「南郡(みなみやましろ)」の朱印・黒印を捺したとあり、布は奈良晒に勝るとも劣らぬ品々だったという。しかし、残念ながら、現在確認出来る布としては1点のみ、朱印・黒印は、これまでのところ見つかっていない。 今後の、更なる発見に期待したい。


追悼 吉岡幸雄先生 3

2020/03/29
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“この辺りにはな「槙島晒」というのもあったんやで。知ってるか?
昔は宇治川でも麻布を晒したそうや“ 先生の工房は宇治川に架かる観月橋の袂にある。
今、目の前の宇治川に、かつての面影はない。元禄時代の歌謡や和歌に、わずかにその名残を留めているのみである。先生の工房の近くに、昭和の干拓で埋立られた巨椋池の、中の島だった「槙島」の地名が残っている。

雪晒・海晒・川晒等の布晒は、布の良し悪しを決める、最後の重要な工程である。後の染色の側から言えば、染色の出来栄を決める重要な前処理工程でもある。“堅く茶色の麻布を、いかにして柔らかく白くして着るか”に、人は早くから工夫を凝らして来た。身の周りの自然風土を巧みに活かしながら。

「呉服類名物目録」寛延元年(1748年)等に、当時の奈良晒の方法が載っているという。

『生平布を水に浸して糊ぬきをし、松の臼と楡(にれ)の木の杵で搗き、芝生の上に広げて灰汁を注ぎ掛けては、晒すことを十数日間続ける(元付)。次にこれを大釜に入れて灰汁を加えて1時間半〜2時間煮てこれを取り出し、芝生の上に広げ、乾けばまた釜で煮ることを6,7度繰り返す(釜入れ)。釜入れが済んだ布を木臼で搗く。2回は灰汁の上澄みを注いで行い、日干しし、3回目は清水に浸して搗き、これを張干しにかけて干す。』(出典:「奈良晒ー近世南都を支えた布」奈良県立民俗博物館 2000年)

大麻・芭蕉・榀・藤等、堅い麻の繊維を柔らかくするためには、繊維に適した良質の灰汁が欠かせない。奈良晒の灰汁は藁灰だという。藁灰(ph9位)は木灰(ph12〜13)ほどphが高くならないので、極薄の布に向いている。又、木灰より金属塩が少ないので、後の染色(植物染料)に影響を与える恐れも少ない。

布を搗く臼は松で、杵は楡で出来ていたという。松は堅い赤松だろうか?強度や耐久性に優れ、水に強い。楡はしなやかさがあり、割れ難いという。道具にも、最適な素材が選ばれていることが分かる。

布が真っ白になるまでには、晴天の日を選んで10日程かかったという。それぞれの具体的な数値は、職人の腕の中だけにあるのだろう。しかし、明治以降は化学晒に変わり、この方法は残されていない・・・ ”やってみなければ分からない“

昨年の9月初めに、織上がって来た大麻布を一反、晒してみることにして、先生をお訪ねした。先生は、以前、木津川で晒したことがあると言われ、“10月に入ったら早速”と話はすぐに纏まった。木津川も、又、かつて奈良に続く晒の産地であった。

“本気や“ 先生の声が、今も耳に残る。