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日本の大麻布 5

2020/02/18
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[望陀布 2]

展示 : 市立市川考古博物館(下総国)

「望陀布」は、優れた職能集団だった阿波忌部氏の高度な技術がもたらした物だろう。
日本の各地に大麻・楮を植え、養蚕を行い、織物技術に長けた彼らが日本の文化・殖産に果した役割は大きい。そのルーツは扶余・高句麗・百済など朝鮮半島から北に続く文化と中国雲南省から長江流域の照葉樹林帯の文化に繋がる南方系の文化の双方に求められるという。彼らは又、海洋民族でもあった。

しかし、この時代の大和政権は、新しく入った仏教を国の中心に据え、天皇を頂点とする中央集権体制を確立していった。この過程で、忌部氏は宮廷の祭祀を分担していた中臣氏(後の藤原氏)に次第に、その地位を奪われていく。807年、名を斎部(いんべ)と改めた斎部広成が、”古語拾遺”を著わすが、その地位が変わる事は無く、忌部氏は歴史の舞台から消えてしまう。追うように「望陀布」も又、“東大寺要録”(1106〜1134にかけて成立)の記録を最後に、その姿を消してしまう。「畔蒜郡」も畔蒜という名前だけを残し、望陀郡に組込まれている。

対馬の豆酘の阿比留氏の出自は、上総国の流人・畔蒜氏で、9世紀の初頭に赦された後、豆酘に定住し長く神官を務めたという。事実なら、豆酘の阿比留氏は阿波忌部氏の末裔なのかもしれない。そのためか、豆酘には阿波忌部氏の祖神・高御魂(たかみむすひ)神を祀る神社が2つもある。対馬に渡った畔蒜氏が名を阿比留と改め、阿波忌部氏の名とその象徴としての大麻布、藍の色を「ののとうじん」に残したのではないだろうか?

目の前に、古代の麻の地図が浮かび上がって来る。


日本の大麻布 4

2020/02/15
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[望陀布(もうだふ) 1]

「望陀布」は「ののとうじん」と何か繋がりがあるのではないだろうか?” とふと思った。

対馬の豆酘(つつ)の阿比留(あびる)氏のルーツは上総国だという。

望陀布は奈良時代に、養老律令の下で、上総国・望陀郡(現在の千葉県木更津市・袖ヶ浦市付近)で織られていた広巾の麻布である。

その当時、阿比留氏と同じ音の畔蒜(あびる)郡が望陀郡の隣に確かに存在した。

他国の一般的な調布の規格が、巾:二尺四寸(71cm)・長さ:二丈八尺(8.3m)であったのに対して望陀布は、巾:二尺八寸(83cm)・長さ:四丈二尺(12.4m)と決められていた。(令の一尺が29.63cmであるのは、ののとうじんの布巾と一致する。)

又、望陀布の糸は格段に細く(経緯共に22/cm)、他国の糸の半分以下の細さであった。これ程の布を相当量、腰機で織ったとすると、望陀布はかなり高度な織の技術を有していたと考えられる。

天皇の践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)や、遣唐使の献上品、東大寺への進上品など特別な用途に使われた望陀布。藍や茜等で染めた布もあったことを、木簡や古文書が伝えているが、特定出来る布は現在まで見つかっていないという。素材は復元を試みた袖ヶ浦市郷土博物館では「苧麻」としているが「大麻」ではないのだろうか?

正倉院の御物の中の、国府のあった市原郡から納められ、大仏開眼供養で使用された「紅赤布」は、望陀布と同等の物とされている。この素材は正倉院の繊維材質調査報告によれば「大麻」とされる。染料は紅花である。

国の威信を懸けた一級品の布が、経緯共に22/cmの織密度なら、素材はやはり大麻だと思う。苧麻なら、もっと細い糸も容易に出来るはずだからだ。

さらに、上総国は元々阿波忌部(あわいんべ)氏が拓いた国。忌部氏は古くから中臣氏と共に宮廷の祭祀を司った氏族で、ヤマト王権成立に貢献した。要所に部民を置き、特に、阿波忌部は大麻と木綿(ゆう・楮)を朝廷に貢進する役割を担っていたため、早くから良い麻(大麻)の産地を求め、黒潮に乗って房総半島の南から移民や開拓を進めた。安房国に続き、上総国は「よき麻の生きたる土地」という意味の「捄国(ふさのくに)」と称されたのが始まりとされる。後「上捄」と「下捄」に分かれ「かみつふさ」「かづさ」「かずさ」となった。

「捄」は、キュウ・ふさと読み、盛る・かき集めるの意味である。麻の古称だというが、「捄」に麻の意味はない。しかし同じ音のキュウ・ソウ・コウと読む漢字に「皀」がある。

「皀」と同じ意味で、ソウ・くろと読む「皁」もある。「皁」は「草」と同じ字という。

「草」は意味を表す艸と早からなり、早が音を表し、とちの意味の橡(しょう)から来ている。草の字は橡(とち)の実(どんぐり)を意味する。後、草の原義が廃れ、艸の意味に用いられるようになったので、皁の字がどんぐりの意味に用いられるようになった。黒の意味に用いるのはどんぐりで物を黒く染めたからである。

旧字体の「總」は、ソウ・ふさと読み、旁の部分が音を表す。集める意味の語源聚(しゅう)から来ている。ひいて広く束ね集める意味となった。

訓読みの「ふさ」は、糸を集めて一か所で締め括った物の意味だが、大麻の野生種・野麻(ぬさ)に対する栽培種・圃麻(ふさ)という説もある。圃は、畑()にその境(□)を加えた字。

「草」=「皁」ソウ・くろ「皀」ソウ、コウ、キュウ「捄」キュウふさ「總」ソウ・ふさ「総」ソウ・ふさ と、順々に韻をふんでいくようで興味深い。

中国では、生平麻を「皀細夏布(こうさいかふ)」、どんぐりは「皀斗(こうと)」と呼ぶ。

これも又、大変興味深い。


日本の大麻布 3

2020/01/31
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[対馬麻 3]
対馬麻の縞には緯縞もある。対馬最南端の豆酘(つつ)は、かなりピッチの広い緯縞である。
布巾が29cmと他所に比べて狭いので、袖口に木綿の紺絣の足し布があるのが、襟のそれと共にアクセントになっている。
この着物を「ののとうじん」といい、「のの」は大麻、「とうじん」は「唐人」だといわれている。
豆酘はかつて海の十字路であったところ。
九州の商人が交易のために大陸に渡る時、必ず豆酘に一泊したという。
鎖国時代、長崎の出島に渡来したインドのサントメ縞(唐桟)が、こうして豆酘に伝わったとしても不思議ではない。
「とうじん」は「唐桟」の訛りではないだろうか?
上総の国の畔蒜(あびる)氏が、その祖先だと伝わる豆酘の阿比留(あびる)氏は、染織に関して特に優れた感性を持った人々だったという。
豆酘独特の、緯縞の「ののとうじん」や、久留米絣の端切れを規則的に繋いだ「はぎとうじん」も、彼らの手で考案されている。
豆酘の人たちが「ののとうじん」を着ていたのは、明治になるまでのことだという。
大切にしまわれていた着物は、戦後、子供達の体操服入れに生まれ変わった。
この袋を持って登校する子供達を、想像するのは楽しい。
何度も洗濯された袋は、白く、柔らかくなり、綻びがあるのも愛おしい。

日本の大麻布 2

2020/01/23
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[対馬麻 2]

縞は着る人や、糸の都合でいろいろなものがあると聞く。

夏の山仕事に着たという代表的な作業着を「うわずり」といった。

麻の着物は茨を弾くので重宝したのだそうだ。

「うわずり」は対丈で袖も短いので、反物は五尋(ひろ)あまり、78mで作れる。

その裁ち方を「のの裁ち」と呼ぶが「のの」は布のこと。対馬では大麻のことを指している。

縫い糸にも、二本の麻糸を撚り合わせて使っている。

縫い目が大きいのは、最初のうち布がごわつくせいであろう。

着なくなった「うわずり」を子供服に仕立て直したもの。

スナップどめが、子供服らしく可愛いらしい。


日本の大麻布 1

2020/01/14
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[対馬麻 1]

対馬麻と言えば、藍の経縞の大麻布を思い出す。

この縞はどこから来たのだろう?

この地図は大陸の側から“鳥の目”で見た対馬。

中央に対馬が見える。

周辺のさまざまな文化が往き交う中で、対馬麻は生まれたのだろう。

1万年以上も前に、大麻が日本に辿り着いた道も、恐らくここに違いない。

今の麻の状況を考える時、“鳥の目”を持つ事と、

時に、視点を変える事の大切さを、この地図は教えてくれる。


日本の大麻

2020/01/01
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注連縄・鈴縄、獅子舞に凧揚げと、日本人の願い事に大麻は欠く事が出来ません。
すっかり忘れ去られたように見える手績みの麻の文化は、今も手の記憶の中で、しっかりと生きているようです。