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お知らせ


日本の大麻糸

2023/01/01
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苧績みが生き甲斐だった、おばあちゃんたちが残した大麻の糸。
越中布の里で。
越後→沖縄・大宜味村と繋いで八寸の帯地にしました。
これは、織り終いの残りの糸。
大宜味村では「うっきー」と呼ぶのだそうですが、語源は分かりません。
じっと見ていると、おばあちゃんたちの声が聞こえてくるようです。


日本の大麻糸

2022/01/01
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お正月、下ろしたての下駄の赤い鼻緒が嬉しくて、
よく走り回ったものです。
鼻緒の内側が大麻だったと知ったのは、
ずっと後のこと。
凧揚げの紐も。
独楽回しの紐も。

まだ、そんなに遠い昔のことではありません。


日本の大麻 2

2021/01/01
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子供の頃に行った近所のお宮さんの初詣。
重い鈴縄を揺すって、願い事をたくさんしましたっけ。
その縄が大麻と知ったのは、大人になってから。
凧揚げの紐も、新しい下駄の鼻緒も大麻。
日本人の暮らしの中に溶けこんでいた大麻は、
今も私たちの記憶の中で生き続けています。


越中布(福光麻布) 2

2020/07/14
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おばあちゃんたちの糸

「織ってみますか?」帰りがけに、福光麻布の元麻問屋の舟岡桂子さんは、大きな袋一杯の手績みの糸を出してこられた。「緯糸だけなら、5疋織れますから。手の綺麗な人のものです。」福光麻布13号(羽)用の手績みの糸である。撚りは掛かっていない。

「私の子供の頃はね、苧績みの出来るおばあちゃんたちが、まだこの辺にたくさんいました。糸や布も皆自分たちで作っていて、余るとそれを売りに来ていた。 だから、色んな糸や布があって、父はそれを黙って買取っていた。断れないって。 おばあちゃんたちにとって「苧績み」は 、“お金” じゃなくって “生甲斐” だった。 百歳まで、元気に地機を織っていたおばあちゃんもいて・・・」 

「おばあちゃんたちの “生甲斐” が無くなっちゃうんじゃ無いの?」と、店終いを考える喜一郎さんに訴えた事が、喜一郎さんから襷を渡されるハメに陥った、きっかけだったと桂子さんは笑う。ところが、桂子さんの代になって2〜30年もたつと、おばあちゃんたちが、毎年、次々に亡くなってゆき「苧績み」は、もはや、おばあちゃんたちの “生甲斐”ではなくなってしまった。蚊帳や幕、畳の縁等の需要も激減するに及んで、桂子さんは暖簾を降す決断をする。 

日本人が生活の中で、手績みの大麻の布を、ごく当たり前の様に使っていたのは、わずか半世紀程前の事である。おばあちゃんたちの布からは、つましく、懸命に生きた日本人の暮らしぶりが静かに伝わって来る。経糸にも緯糸にも撚りがかかり、経・緯の糸の数がほぼ同じ布は、糸と糸との間に真四角の隙間がある。それ故か、地機のためか、整った柔らかな印象を与える。

ところが、舟岡商店の店終いから十数年が経つという今、日本では「手績みの糸に撚りをかけ、地機で織る」事は、もはや至難の業である。中国でも「糸に撚りをかけ、真四角な隙間のある布を織る」事は出来ない・・・

おばあちゃんたちの糸はズシリと重い。


越中布(八講布/五郎丸) 1

2020/07/08
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経糸に大麻、緯糸が苧麻というのも珍しい。近世日本四大麻布の一つ「越中布」。別名「八講布」あるいは「五郎丸」として、その名が知られて来た。 「八講布」は、砺波郡八講田村で「五郎丸」は、隣村の五郎丸村で織られたところから来た名前である。しかし、江戸の中頃には、両村共、ほとんど麻布の生産は見られなくなり、砺波郡一円に産地が拡大したという。また、当時、小矢部川上流の山間の村々で「川上布」、細布(さよみ)とも呼ばれる上質な布が織られており、「八講布」が織られなくなってからは「川上布」が「八講布」の名を継いだという。(「越中 福光麻布」桂書房 2016年) 「越中布」も「奈良晒」や「白高宮」と同じように、小矢部川の川晒で布を白くした。

八かう島 かゞしま これなり 白八かう、同広 世にこれを五ら丸という。以上は加州よりいづる。上ものを御蔵(をくら)といふ。』と「八講布」「五郎丸」と呼ばれた布を『万金産業袋』で三宅也来は、こう紹介している。(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

経糸:大麻 緯糸:苧麻 (倍率20倍) 

「苧麻x苧麻」「大麻x大麻」と、各産地がその特徴を競い合う中で、「大麻x苧麻」の越中布は、堅からず柔らか過ぎず、静かにその異彩を放つ。 経糸は五箇山近在の地苧を、緯糸は最上産の青苧を使ったのは、地苧の強度と最上産の青苧の美を合わせたのであろう。白高宮の糸遣いに通じる気がする。 

江戸時代まで、砺波郡は加賀領であった。加賀藩の重要な産物であった越中布は、裃や神社の幕等に使われ、最盛期には年間65000疋に達したというが、江戸期の資料は乏しく、当時の布は、なかなか手にすることが難しい。 

とりわけ、越中布に特徴的なのは、着物や蚊帳の原材料となる苧絈(おがせ・績んで撚りをかけた糸)も、加賀藩の重要な産物だったことである。“能登ロ郡(羽咋・鹿島両郡)には絈問屋が有り、苧絈の大半は、近江八幡や五箇荘の江州商人に販売されていた”という。(三浦純夫『能登に来た江州の苧絈商人』 「石川県史だより」第55号2015年) 

高宮布の中には、経糸が大麻、緯糸は苧麻の物や、地糸は大麻、絣糸のみ苧麻の糸を使う例も見られる。高宮布のモダンな意匠は、越中布からの豊富な糸の供給が生んだとも言えるかもしれない。「越中布」と「高宮布」、近世の二大麻布が糸で結ばれていた、というのも面白い。 

「五郎丸は無いか?」と、30年程前、この仕事を始めた頃に、ある旗屋さんから聞かれた事が「五郎丸」という麻布を知るきっかけとなった。当時、福光で求めた「五郎丸」は、経糸は苧麻の紡績糸、緯糸が手績みの大麻糸の白い布であった。越中布は、昭和天皇の大喪の礼に240反を納めた事を最後に、その歴史を閉じたとされるから、求めた布は、商品として流通した最後の物であろう。 江戸期の「越中布」は、経糸が手績みの大麻糸、緯糸は手績みの苧麻糸であった。 明治に入って、紡績糸が導入されると、一気に、経糸の手績みの糸は紡績糸に取って代られる。経糸が紡績糸になり、手績み糸のように、経糸の張力の調整を必要としなくなった機は、地機から高機に代わり、織の能率を上げる。同様に、灰汁を使った川晒も、薬品を使った化学晒に代わっていく。“白く柔らかい布” を実現した川晒の布は “白い布” に代るのである。 

「福光麻織物の沿革」舟岡喜一郎 昭和十一年十月 帝織へ提出 より抜粋 『明治初年頃の原料は山形産カラムシ、上州 野州産大麻を使用し手うみ手つむぎ手織にて生産せり。明治二十三年頃はじめて製麻糸を知りたるも国産麻布擁護の為、出町、福野等と申し合わせこれを使用せざる事とせり。然れ共、時代の勢抗し難く明治三十三年頃より是を経糸として盛に使用し、二、三年を出ずして製麻糸を経糸と為すもの大部分を占むるに至れり。製麻糸の使用は手織機より足ふみ機へと変化し大いに能率を上げたり。』(出典:「越中 福光麻布」桂書房 2016年より) 

江戸から明治という時代の激しい変化の中で、麻布も無縁では有り得なかった。 手績みの麻布にとって、現在は更に激しい時代の変化に晒されていると言えるだろう。 その意味で、舟岡喜一郎氏のこの記述は、私たちに多くの示唆を与えるものと思えてならない。


二つの「南郡晒 」 2

2020/05/18
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[しろ高宮(近江晒/野洲晒)]

“近江さらしというは、しろ高宮の事なり。至極の上品は見ての景気、奈良よりも、まだまさりていろ白く、糸ほそく光あって見事なるものなり。つよきを好まず、和らかきをいとわぬ人の御召地には、是に勝るはあらし。“ と「万金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ)」享保17年(1732年) で、三宅也来はしろ高宮をこう評した。(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

日本人が縄文時代の初めから使い続けて来た「麻」の代表格は「大麻」と「苧麻」である。この二つの麻は、特に、糸や布になってしまうとほとんど見分けがつかない。そのせいか、文献に表れる「麻」が大麻なのか苧麻なのか、明確に区別されていない事も多い。しかし、実際に、糸にし布に織る過程では、それぞれの繊維に応じた使い分けが明確にされているので、その違いは十分に認識されていたはずである。

江戸時代、苧麻を素材にした「奈良晒」と「木津晒」、大麻を素材とした「しろ高宮」は、それぞれの特徴を生かしつつ、互いに凌ぎを削った事だろう。共通点も多いが「しろ高宮」の最大の特徴は、その柔らかさにある。大麻布は堅いイメージが強いが、江戸時代の川晒は“灰汁で炊き、繊維間の膠着物を落として、川で濯ぎ、天日に晒す事を繰り返した。”大麻は繊維同士の結束力が強いので、一旦、それが外れてしまうと、急速に柔らかくなる。麻は、どれも、砧・染・着用等により次第に柔らかくなっていくが、苧麻布と比べてみると、大麻布の柔らかさが際立って感じられる。


経糸:大麻、緯糸:大麻(倍率20倍)

画像の布は、経糸・緯糸共に大麻である。時代も朱印等も不明なので、それと特定は出来ないが、素材と糸の細さから「しろ高宮」の可能性が高いと思われる。

高宮布の大麻繊維は、強さを求められる経糸には強靭な地元産を、緯糸には艶の良い上州産を買い入れたという。“奈良よりも、まだまさりていろ白く、糸ほそく光あって見事なるものなり。“也来の記述は、この繊維の使い分けによるのだろう。この白く和らかい麻布が、当時の人々の心を捉えた事は想像に難くない。

しろ高宮は「野洲晒」ともいう。湖東地方においては、愛知川以北(北郡)の高宮を中心とする近江麻布産地に対して、愛知川以南(南郡)は、野洲を中心とする晒の産地であった。そのため、野洲晒は「南郡(なんぐん)晒布」を名乗っていた事が、いくつかの史料により確認出来る。「南郡曝布平大工曲」の朱印が捺された、経・緯共に大麻の布も、見つかっているという。

しかし「野洲町史」第2巻 (野洲町 1987年)によると「南郡晒」の呼称を巡り、明和6年(1769年)、木津晒より“呼称差止”の訴状が京都町奉行所に出され、野洲晒側が勝訴している。

同じ「南郡」を、木津晒は「やましろ」と呼び「万金産業袋」が書かれた、1732年当時には、著者の三宅也来にも「南郡」=山城国と認識されていた。しかし、その後、野洲晒の品質が上がり、名声を博して来ると、木津晒の地位は危うくなり、呼称の提訴に及ぶも、その地位が回復することはなかった。これを機に、木津晒は奈良晒の原料供給へと加速していったのではないだろうか? 木津晒が終焉を迎える明治維新の丁度100年前の事である。


二つの「南郡晒 」 1

2020/05/07
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[木津晒]

『幅丈南都(なら)ざらし同断。ならの名物の妙は爰にあり。麻の性、仕入れ同じく、木津川とならの晒場とは、水筋も一つなれとも、わづかの内の違にて大ぶんの地のちがひ。見分(けんぶん)はいかにも相かはる事なしといへとも、染て和らかに着こゝろしよりつきなくて心よからず。南都という朱印のことく、南郡(みなみごほり)という朱印を押せども、それも此ころは山城国といふ字のやうに覚ゆ。爰よりも、島、生びら、しろ等ならにかはる事なく出る』と「万金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ」享保17年(1732年)で、三宅也来が書き記した木津晒とは、どのような布であったのだろうか?(出典:「萬金産業袋」八坂書房 1973年より)

木津晒はこれまで奈良晒の産地の一部と見做され、その実像はほとんど解明されてこなかった。地元の木津町においてさえ「山城判場」や「木津晒」は言伝えでしかなかったという。

2018年11月『今井家記録』の中にあった「一国一人山城判場之由緒」と題する、木津晒に関する貴重な資料が ”木津の文化財と緑を守る会“の手で現代語訳され、公開された。(会報『泉』第2号) 今井一族は、近世から「山城判場(木津判場)」が終焉を迎える幕末まで「山城国の晒」にかけられた運上金(税金)を仕配してきた一族という。この文書は今井家の子孫の、特に婦女子に向けて、分かりやすく書き残された物と聞く。

「万金産業袋」によると、判場では「南郡(みなみごほり)」の朱印を捺したというが、この文書の中では「南郡」を「みなみやましろ」と読ませている。

文書を追って行くと、木津晒は、奈良春日大明神の本宮と若宮に捧げる神御衣(かんみそ)としての麻布を、木津川に晒したのがその興りという。 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が山城国の笠置山に臨幸した際には、木津庄及び相楽郡南部で織られていた麻布を、笠置山の山上・山下に建て旗印とした。 延徳元年(1489年)、足利9代将軍義尚の盂蘭盆供養のために、京都東山に木津晒布を牽いて大文字の形とする。(これが今に続く五山の送り火の始まりである。)等、木津の晒布が、古くから、常に時の権力者と強い繋がりがあった事がうかがえるが、この文書が特に書残したかった事は、次の件りであろう。

天正10年(1582年)6月に、織田信長が討たれた時、堺にいた徳川家康が岡崎へ逃走する際、木津を通り、地元の木津・今井一族が木津晒二幕を献上してその警護に当たり、多羅尾(現在の滋賀県甲賀市)まで供をした。後に、慶長19年(1614年)、家康が再び木津を訪れ、稲田孫右衛門宗次宅に泊まったとある。その際、逃走時の功労に対して、山城一国の晒布に運上金(税)をかけ、支配する権利を今井氏のみに与えた。大和国は南都清須美氏に与えられた。

だが、この記述には謎が多い。現在の諸説では家康逃亡のルートに木津は含まれていない。慶長19年大阪冬の陣の時は、木津に泊まる予定を変更し、奈良の奉行所に泊まっている。 しかし、諸説の通りなら、その後の今井氏に対する厚遇は考え難い。

明和5年(1768年)、奈良晒は山城国の運上金も合わせて支配するため、訴訟を起こすが、翌明和6年(1769年)6月19日、京都町奉行石河(いしこ)土佐守の裁きにより、木津晒側が勝訴する。この文書は、安永元年(1772年)6月19日に書かれているので、この時の、今井家が運上金支配に至る経緯を、敢えて徳川家康まで遡って書き記した物と思われる。

反面、「野洲町史」第2巻 (野洲町 1987年)によれば、同じ年の明和6年(1769年)「南郡(みなみやましろ)」の名称を争って、同じく「南郡(なんぐん)」を名乗っていた、しろ高宮(近江晒/野洲晒)との間に訴訟を起こし、木津晒側が敗訴したとあるが、この文書には、敗訴の事は触れられていない。

「山城判場(木津判場)」では、山城一国で生産される生平麻や晒布を検め「南郡(みなみやましろ)」の朱印・黒印を捺したとあり、布は奈良晒に勝るとも劣らぬ品々だったという。しかし、残念ながら、現在確認出来る布としては1点のみ、朱印・黒印は、これまでのところ見つかっていない。 今後の、更なる発見に期待したい。


追悼 吉岡幸雄先生 3

2020/03/29
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“この辺りにはな「槙島晒」というのもあったんやで。知ってるか?
昔は宇治川でも麻布を晒したそうや“ 先生の工房は宇治川に架かる観月橋の袂にある。
今、目の前の宇治川に、かつての面影はない。元禄時代の歌謡や和歌に、わずかにその名残を留めているのみである。先生の工房の近くに、昭和の干拓で埋立られた巨椋池の、中の島だった「槙島」の地名が残っている。

雪晒・海晒・川晒等の布晒は、布の良し悪しを決める、最後の重要な工程である。後の染色の側から言えば、染色の出来栄を決める重要な前処理工程でもある。“堅く茶色の麻布を、いかにして柔らかく白くして着るか”に、人は早くから工夫を凝らして来た。身の周りの自然風土を巧みに活かしながら。

「呉服類名物目録」寛延元年(1748年)等に、当時の奈良晒の方法が載っているという。

『生平布を水に浸して糊ぬきをし、松の臼と楡(にれ)の木の杵で搗き、芝生の上に広げて灰汁を注ぎ掛けては、晒すことを十数日間続ける(元付)。次にこれを大釜に入れて灰汁を加えて1時間半〜2時間煮てこれを取り出し、芝生の上に広げ、乾けばまた釜で煮ることを6,7度繰り返す(釜入れ)。釜入れが済んだ布を木臼で搗く。2回は灰汁の上澄みを注いで行い、日干しし、3回目は清水に浸して搗き、これを張干しにかけて干す。』(出典:「奈良晒ー近世南都を支えた布」奈良県立民俗博物館 2000年)

大麻・芭蕉・榀・藤等、堅い麻の繊維を柔らかくするためには、繊維に適した良質の灰汁が欠かせない。奈良晒の灰汁は藁灰だという。藁灰(ph9位)は木灰(ph12〜13)ほどphが高くならないので、極薄の布に向いている。又、木灰より金属塩が少ないので、後の染色(植物染料)に影響を与える恐れも少ない。

布を搗く臼は松で、杵は楡で出来ていたという。松は堅い赤松だろうか?強度や耐久性に優れ、水に強い。楡はしなやかさがあり、割れ難いという。道具にも、最適な素材が選ばれていることが分かる。

布が真っ白になるまでには、晴天の日を選んで10日程かかったという。それぞれの具体的な数値は、職人の腕の中だけにあるのだろう。しかし、明治以降は化学晒に変わり、この方法は残されていない・・・ ”やってみなければ分からない“

昨年の9月初めに、織上がって来た大麻布を一反、晒してみることにして、先生をお訪ねした。先生は、以前、木津川で晒したことがあると言われ、“10月に入ったら早速”と話はすぐに纏まった。木津川も、又、かつて奈良に続く晒の産地であった。

“本気や“ 先生の声が、今も耳に残る。


追悼 吉岡幸雄先生 2

2020/03/24
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“「なんとざらし」や” ルーペを覗きながらそうおっしゃった。
昨年の9月始めに、奈良晒の朱印のある布裂をお持ちして、朱印の横の墨書きを読んでいただいた。朱印とは逆向きに「ナム斗さ羅らし」と書かれている。

「奈良晒」は近世奈良を中心に織られた自給用の織物とは異なる「商品麻織物」である。
徳川幕府の庇護の下で、武士や富裕な町人の裃等の礼服用、ないしは帷子の衣料用として発展した。最盛期には、年間30 〜40万疋もの生産量を誇ったという。
素材には、越後や最上産の上質の青苧が使われ、“細緻絹の如し“と謳われたが、評価を高めた最大の要因は“潔白雪の如し”と言われた晒の技術の高さであろう。
慶長16 年(1611年)に、家康の命により尺幅を検査し「南都改」の朱印を捺すことが定められ、朱印の無い晒布の売買が禁じられた。

朱印は、次のように捺されている。

朱印の真ん中に「南都曝()平大工曲」と有り、右側に布の長さ「六丈七尺五寸」が、左側に亘(わたり:渡す・通す=)「壱尺壱寸」が印されている。

(生地提供 :リメイクデザイナー/森川恭子さん)

「平」は「平布」「生平布」で、奈良晒では通常、経糸のみに撚りを掛けた布のことを言う。しかし、既に衰退の一途を辿っていた幕末安政年間に、極細の糸で、経・緯共に無撚りの、最上級の「極上御召晒」も織られていたと聞く。
この布裂には経・緯共に撚りが見られない。もしかすると、その「極上御召晒」の内の1枚なのかもしれない。

「大工曲」は曲(金)尺のこと。主に大工が使い、金で作ったことに由来するという。通常、尺と言えば曲尺を指す。当時、流通していた曲尺は、永正年間(1504〜1521年)に、指物師又四郎が考案した「又四郎尺」で、一尺は30.258cmである。晒後の寸法を朱印で印した。
長:六丈七尺五寸=20m42.42cm
亘(幅):壱尺壱寸=33.28cm

今、改めてこの朱印に触れていると、あの時の先生の言葉がまざまざと蘇って来る。


追悼 吉岡幸雄先生 1

2020/03/19
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“「績むの世界」を大事にせなあかんよ。

布が無かったら、私たちは染められんのだから。”と、

いつも、背中を押していただいた。

残された宿題は、あまりにも大きい。

頭上から、“がんばりや”の変わらぬ声が 聞こえてくる。

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神に捧げる純白

久しぶりにアメリカ合衆国のボストンとニューヨークへ
出かけた。美術館で名品の数々を観るためである。

とりわけニューヨークのメトロポリタン美術館で、エジプトの部屋の鑑賞に時間をさいた。いつもながら美しい発掘調査の成果が見事に展示してあって、見応えがあった。時間がまたたく間に過ぎていく。なかでも、私は埋葬されたミイラを巻いた麻布に魅せられる。

古代エジプトでは、衣類といえば麻しかなかったといってもいいわけで、清浄な白い麻布は、高貴な人びとも、庶民も着用していたのである。そして墳墓(ふんぼ)に葬る死者の身体に白い麻布を巻きつけた。

麻はまさしく聖なる衣服であったのである。それは古代の日本にもあてはまる。

伊勢神宮では二〇年に一度、式年遷宮(せんくう)が行われてきた。式年遷宮では、伊勢神宮の内宮(ないくう)と外宮(げくう)のふたつの正殿(せいでん)と、一四ある別宮(べつぐう)の社殿をすべて造り替えて神を遷(うつ)す。持統四年の六九〇年にはじめられて、前回の平成五(一九九三)年で六一回を数える。

私の染工房も、遷宮に使われる絹布の染色のお手伝いをさせて戴いたため、前回の遷宮が無事終了した際に、神宮司庁(じんぐうしちょう)から礼状とともに、小さな桐の箱に入れられた記念品が届けられた。箱は白い和紙で包まれていて、上には水引のように白い麻の緒(お)が結ばれていた。

贈答品を包装する紙にかける飾り紐である水引は、祝いごとには紅白や金銀が、弔事には黒白や黄白で結ばれることが多い。

しかし、伊勢神宮からのそれは、白い麻の紐であったことが古式ゆかしく印象的であった。

水引という言葉は、麻などの靭皮(じんぴ)繊維〔表皮のすぐ内側にある柔らかい皮のこと〕を採るときに、水に浸してから引きあげ、外皮を剥ぐことに由来している。古代の日本には木綿、羊毛などの繊維がまだ伝播(でんぱ)していなかったため、麻や、山野に自生する楮(こうぞ)、藤などの樹皮を細く裂いて糸として、機(はた)にかけて布を織りあげ、衣料にもしていたのである。こうした樹皮の内側を用いる繊維には、植物の茶色いタンニン酸が含まれている。

現代は紙、タオル、衣料など真っ白な色をあまりにも日常に眼にしていて、なんの不思議も感じないが、化学漂白剤が海外から入る江戸末期までは、生成(きなり)色の自然の色がついた植物繊維から、純白な糸を得るのは容易ではなかった。

まず木灰で煮て、繊維を柔らかくするとともに、不純物を洗い流す。それを晒(さら)して純白を得るためには、太陽の紫外線に当てるといいことを日本人も古くから知っていた。

沖縄のように海が近いところは、海面すれすれに布を張る。これを「海ざらし」という。良質な麻を産する新潟県越後地方では、深い雪がとけはじめる三月頃に、残雪の上に布を敷き、春光を浴びさせる「雪ざらし」という手法がある。

また、東京都の西を流れる多摩川、奈良と京都の県境近くの木津川の周辺では、川辺の白砂の上で「川ざらし」、あるいは茶畑の上に布を敷く「丘ざらし」で太陽に晒していた。

神に捧げる純白で無垢な布帛(ふはく)は、こうした知恵から生まれた。人間は華やかな色を染める以前に、まず白を発見しなければならなかったのである。

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出典 : JALカード会員誌「AGORA 」2011年1月号より